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のざきまいり

野崎まいりとは

※令和5年の露店は1~7日までの出店となります。

「のざきまいりは屋形船でまいろ~」は東海林太郎(しょうじたろう)さんの歌う野崎小唄の歌い出しです。
のざきまいりとは、五月一日~八日までの無縁経の御開帳に本尊十一面観音にお参りする行事です。
現在でも、駅からの参道の両側には200軒以上の露店が並び、30万人以上の人出があります。

『のざきまいり』のはじまり

元禄時代、曹洞宗になってから五代目の大真慈門和尚が寺門興隆を願い参詣誘致に努め、それまで秘仏であったご本尊の特別開帳をおこなったことがはじまりです。
当時の大坂の商人層から篤く信仰を受け、大変な賑わいをみせました。

古典芸能の舞台として

当時、大阪の行楽地として人々の親しまれたことから古典芸能にも多く登場します。近松門左衛門の「曽根崎心中」や「心中天網島」などと共に「女殺し油地獄」や近松半二の「新版歌祭文」で描かれたお染久松の心中物語では久松の実家が野崎にあり、お染が野崎観音へお参りに来る様子が描かれています。
元禄時代の当時は恋愛も、生まれや身分で勝手にすることは出来ない社会であり、男女が出会い愛し合いながらも結ばれることはできず、共に命を捨てて心を共にする心中物語が人気となり多くの話が作られています。

また、上方落語『野崎まいり』では、桂春団治をはじめ古典落語の演目として多く導入部分に関西三まいりとして、京都祇園の『おけらまいり』と讃岐の『こんぴらまいり』そして大阪の『野崎まいり』と紹介されます。
当時の賑わいは今以上であったことと思われます。
道中の参拝者同士の口喧嘩に勝つと良いことがある運定めと言われ、船に乗る人と土手を歩く人との掛け合いが河内弁で面白おかしく描かれています。

屋形船の風景

屋形船は大阪城の北にある八軒屋浜から寝屋川を遡り徳庵から住道を経由して、現在の野崎駅の南の観音浜まで運行されていました。江戸時代はじめまで、深野池と呼ばれる大きな池が大阪と野崎の間にありました。
1740年に大和川の付け替え工事が行われ深野池は干拓され新田開発が盛んになり、それまでの池が陸地となり、その中を水路が通り船や徒歩で少ない時間で往来が出来るようになりました。
天満橋の八軒家浜から約17kmという近すぎず遠すぎず、日帰り行楽地としては絶好の距離となり、新しく干拓された陸地の中の水路を大小の船、または土手を歩いてお参りする道中は目新しく楽しかったことでしょう。
明治28年に片町線が開通してからだんだんと川は人の生活から離れたものとなり、昭和の初期にはほぼ船は無くなったそうです。
残念ながら現在では屋形船をはじめ、『野崎小唄』の風景はなくなってしまいました。